映画『ひらいて』を観た。
ひらいてを観て、泣く人と泣かない人がいると思う。
どっちが偉いとか良いとかでもなく、
ただ、木村愛の感情を、知る人と知らない人が、いるだけなんだと思う。
杏奈ちゃんが愛ちゃんのことを「分からない」と思っていたと知った時、わたしにとってそれはもう衝撃でしかなかった。
愛が、分からない?
「私のものになってくれないなら嫌いでいい」って感情が、
全てを奪いたいって感情が、行動が、
分からない、、、
そんな方がいるんだなぁってわたしにとっては衝撃的で。(しかも「分からない」と仰りながらもスクリーンの中の愛ちゃんは完全に愛ちゃんだった。山田杏奈ちゃん、凄すぎる。)
多分、愛ちゃんが美雪を見つけた時のような衝撃。「愛側じゃない人がいる」という事実。
そして、上映が終了した直後からすっと難なく現実世界に戻っておしゃべりすることができる周りの方たちを見ても同じような衝撃を受けた。
そっか。わたしはわたしの当たり前を信じ込みすぎていた。
全てをめちゃくちゃに壊したくなるような恋を全人類がしていると、勝手に思ってた。
わたしは、『ひらいて』を観て泣く側の人間だった。
悲しい?かな。側から見たら哀れかも。
きっと、愛の感情を知らない人は、また他の大切な気持ちを知っているんだと思う。美雪の気持ちとかね。
エンドロール
この映画とお別れするための猶予のような時間を、わたしは気が済むまで涙をこぼして過ごした。
『ひらいて』への没頭と、わたしの日常。その間をふわふわと漂っているような時間で、ものすごく、ものすごく名残惜しかった。
『ひらいて』の世界に、仲間を見つけたような感覚がしたんだよね。
ぐしゃぐしゃな感情で、気持ち悪いほど打たれ強く「好き」に執着する。そんな仲間が『ひらいて』の世界には居た。
高校生の頃にこの作品に出会っていたら、どれだけ救われただろうと思う。
自分ただひとりがぐしゃぐしゃとした感情を抱えているような気がしていたあの頃に、この作品と出会っていたら。そう思わずには居られない。
スクリーンに映る愛ちゃんの姿は、「いつかの私」を継ぎ接ぎにしていると思った。
心のふちでたとえのことを考えながら、チャリの上で多田くんに甘える愛ちゃん。
ロッカーを漁る愛ちゃんの、何も怖がっていない目。
側からみたら「可哀想」な、感情のないたとえのキスに、「うれしい」と言う愛ちゃんの微笑み。
わたしにも、すきなひとのこと考えながら無神経に他の人に甘えたことがあるし、ロッカー漁ったことあるし、空虚なやりとりすら嬉しいと心から思った痛々しい時間もあるし。全部、「いつかの私」。
美雪に近づいた愛ちゃんとは違って、わたしが体を許したのは男のほうだったけど、全てを投げ打ってしまおうと思えるほど狂っていたその頃の気持ちが、スクリーンの中の世界にぴったりと重なってしまった。
だから、教室でたとえが愛に容赦のない言葉を浴びせるシーンは、「いつかの私」に言われているようでグサグサと心に入ってきてこんなにも涙って自然に出るものかと驚くほどに視界がすぅっと潤んだ。
「いつかの私」って書いているけど、私の暴力的な部分はまだ私の中に身を潜めているのかもしれないし、また恋をすれば姿を現すのかもしれない。分からない。そんな恐怖も相まって静かに泣いた。
現実に重なったのは愛ちゃんだけじゃない。
多田くんのハグは吐きそうになるくらい温もりが籠っていて、いつかの誰かの熱の籠ったハグを思い出して、ひどくうざったく吐きたくなった。
対照的に、たとえくんのハグはいちばん近くにいるくせにどうしようもなく距離が遠いように透明で、そんなそっけないハグの方が多田くんのハグよりも心地良いなんて皮肉すぎると思ったりした。
─────────────────────
わたしが1回の鑑賞で言葉にできたのはここまで。もう一回観に行こうか検討中です。だってどうしてもこの作品を味わい尽くしたい。ラストの展開はどう捉えるんですか?もう一度見なきゃ何にも言えない気がしてる。
ただ、好きなグループの彼に関連して思ったことがひとつ書き残せる。
作ちゃんのたとえくんは、優しさが加わったなぁと思って観ていました。
原作の中でわたしが描いていたたとえはもっと冷たくて世界に閉じこもっていたから、
作ちゃんのたとえを観て「や、やさしいじゃん…」ってきゅんとしたと同時に、「全部、甘さを持つたとえのせいじゃん」とたとえを問い詰めたくなってしまった。
たとえ。君はこれからも、何人もの「愛ちゃん」に出会うと思うよ。
鑑賞1回目備忘録終わり!
2回目いつ行こっかなー!